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1.灰の水曜日

「主はわたしたちを罪に応じてあしらわれることなくわたしたちの悪に従って報いられることもない。」(詩編103:10)

受難節はこの日から始まります。イースターの前日から、日曜日(主の復活された日)を除いた40日間が、受難節(四旬節ともレントとも呼ばれる)ですが、最初の日は必ず水曜日になります。「灰」という言葉があるのは、カトリックでは司祭が灰で信者の額または頭に十字の印をつけることからのようです。バプテストではこのような儀式はありません。

毎年この季節になるとブラジル リオのカーニバルが話題になりますが、カーニバル(謝肉祭)は受難節の前一週間ほどの祭りであり、言葉は「肉よさらば」という言葉から来たと言われています。今も一部にはその習慣が残っていることもあるそうですが、受難節は肉食を断ち、祝祭を控えるということから、その前に大騒ぎをしておこうということから始まったようです。昔は今ほど暖房も発達しておらず、寒いヨーロッパの環境で肉を断つというのは、相当きついことだったと思えます。みなさんも今年は何か好きなものを受難節の間断ってみたらどうでしょうか?

アメリカの20世紀作家にエリオットという人がいましたが、彼は「灰の水曜日」という一連の詩を残しています。その第五部ではこのように歌われています。(上田保氏訳詩)

失われた言葉が失われ、力つきた言葉が力つき
聞かれない、語られない言葉が
語られず、聞かれないとしても、
言葉のない御言葉、この世のうちの、そして
この世のための御言葉がある。
光は闇にかがやいたが、
御国にさからって、静かでないこの世は、あいかわらず
静かな御言葉を中心に、逆まいていた。

これを読むと、エリオットが「ヨハネによる福音書」の冒頭を思い描いていたことがわかります。私たちも主なるイエス・キリストの受難の意味を深く思い描きつつこのシーズンを過ごしたいと思います。

2.受難節第一主日

「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」(マタイ6:13)

灰の水曜日から受難節(レント)に入り、最初の主日を迎えました。レントは日曜日を除いて40日間にわたりますが、この40という数字は、イスラエル民族がモーセによってエジプトを脱出してから後40年間荒野をさまよった事実、またイエス・キリストが荒野での40日間誘惑を受けた事実にもとづくのである。イスラエルの民族にとって40という数字は12(12部族)と同様に重要なものであったようです。というのは、イスラエル王国最盛期の王であった、ダビデとソロモンの治世がそれぞれ40年であったからです。

第一主日のキーワードは「試み」です。イエス様は荒野の40日間で悪魔の誘惑を受けられたのですが、この「誘惑」という言葉と「試み」という言葉は新約聖書で用いられているギリシャ語では1つの同じ言葉です。誘惑はマイナスイメージの言葉ですが、試みは私たちが積極的に難事に立ち向かっていくどちらかというとプラスイメージの言葉です。つまりギリシャ人にとっては、人間の心の持ちようで方向性が変わるだけと理解したのかもしれません。

主イエス様が弟子たちにこのように祈るようにと教えられた、いわゆる「主の祈り」には、神についての3つの祈りと人に対する3つの祈りの言葉があります。その最後の祈りで主なるイエスは「誘惑」に遭わせないでください、と祈るのです。世の中にはさまざまな誘惑が存在しています。それは神の子なる主イエス・キリストにおいても同じであられました。その中で、主イエスは神から与えられた使命を果たすべく、誘惑を振り払って与えられた道をひたすら歩んでいくのです。

3.受難節第二主日

「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(ローマ5:8)

かってクリスティアン・フリードリッヒ・ヘンリーツィという詩人がいました。この名前でピンと来る方は少ないかと思います。ピカンダーというペンネームのほうが有名かと思います。ピカンダーというのは「かささぎ男」という意味です。ヨーロッパではかささぎはおしゃべりであるという通念がありました。詩人のピカンダーもおしゃべり好きだったのかもしれません。

この詩人が現代に名前が残っているのは、バッハの永遠の名曲である「マタイによる受難曲」の作詞家としてです。マタイによる福音書の26,27章をテキストと用いてコラール、アリア、レシタティーボによって構成されたこの受難曲は、それ以前の受難曲にはない劇的な要素を含んでいます。昨今は日本でもこの時期によく演奏されるようになりました。さきほどYahoo チケットで調べたら4回ほどリサイタルのチケットが販売されていました。

ピカンダーは実は詩人が本職ではなかったようです。いろいろな職業についていたようですが、その中に徴税官というのがありました。ザアカイと同じ(もちろん時代・場所は違いますが)職業です。この詩人とバッハは親しい友人であったようです。15歳ほど年下だったのですが、バッハのカンタータの作詞者として頻繁に名前が出てきます。

「マタイ受難曲」といえばカール・リヒターをはずすことはできないでしょう。もう亡くなって30年になろうとしており、最近の演奏スタイルからすると古くはなっていますが、演奏を通じて伝わってくる感激は独特なものがあります。リヒター1958年盤を毎日小分けにして聞いてすごすのがこの数年、私の受難週のすごし方です。

4.受難節第三主日

「一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。 弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。 高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」 イエスはこれを知って言われた。「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。 この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。 はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」 」(マタイ26:7~13)

ナルドの香油の物語である。つい最近まで、私はナルドというのは場所・地方の名前だと思っていました。ある時、詳しく調べてみたらあそれが植物だということがわかりました。インド・ネパール地方原産の植物だそうです。日本のオミナエシの仲間だそうです。その地下茎から取り出した香油というのです。どのようにユダヤ地方に入ってきたのでしょうか?高価であった理由がよくわかります。

ナルドは旧約聖書にも出てくる。雅歌の1:12と4:13であるが、ということはソロモン王のころから知られていたことになるのだろう。もっとも、古代エジプトでは使用されていることがわかっていますから、オリエントでは古代から使用されていたのでしょう。

ユダヤの習慣として、遺体を葬るために香油が用いられたことはヨハネによる福音書19章の記述からもわかる。香油・香料は香りとしての用途以外にも防腐・消毒のためにも用いられていたのである。その極端の例はエジプトのミイラであるが、香油・香料を用いた埋葬の仕方はオリエント地方の一般的な方法であったのでしょう。

ナルドの香油自体は、エッセンシャルオイルとして用いられることはあまりないようですが、意外なところに使われていることを知りました。天然素材の白髪染めである「ヘナ」です。その一部にナルドの香油が調合されていることがあるそうです。2000年前を偲ぶことができるかもしれませんね。

5.受難節第四主日

「民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」」(マタイ27:25)

受難劇をご存じですか?キリストの最後の一週間、つまり棕櫚の日曜日から復活までを舞台で演じるもので、もっとも有名なのは、ドイツ バイエルン地方のオーバーアマガウで10年ごとに開催されているものです。2010年は開催年にあたっており、全世界から観光客がバイエルン地方を訪れることと思います。

由来は、1633年にペスト(黒死病)が流行したときに、村民が神の怒りと信じ、今後10年に1度世の終りに至るまで、キリストの受難劇を演じると誓ったところ、ペストが終息したそうである。以来多少の欠落・追加があるものの、この受難劇は連綿と村人により演じられてきている。この村の人口は約5000人だそうですが、約3分の1は出演するのだそうで4月から9月の期間中(日曜日を除く)毎日上演されるということからも、その労苦の大変さがわかります。

今日の聖句は、主イエスが捕らえられてポンテオ・ピラトによって裁判されたとき、扇動された民衆がピラトの問いかけに対して答えたものです。やがてヨーロッパにキリスト教が広まる中で、ユダヤ人に対する差別・迫害の一端となった箇所でもあります。例えばシェイクスピアが書いた「ヴェニスの商人」で描いた金貸しのシャイロックはその当時のヨーロッパ人の意識を表したものと言えるかもしれません。

この言葉も、4つの福音書を見比べてみるとマタイ福音書にしか記述はありません。実際そのようなことが起こったとしても、この扇動された民衆の姿は一民族だけのものでなく、むしろ私たちひとりひとりの心の奥底にある罪そのものといえると思います。逆説的ですが、その罪から私たちを解放されるためにイエス・キリストは十字架にかかってくださったのです。

6.受難節第五主日

「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(コリントⅠ1:18)

古代ローマにおいて、十字架刑はいわゆる反逆に対する見せしめの刑罰であったとされています。また、ローマ市民権を持たないものに対して適用されたといわれています。古代ローマが領域を拡大していくなかで、ローマ市民権制度も変わっていきます。特に帝政の後期にはお金を払えば市民権を得るということもできたようです。それだけ、ローマ帝国の財政が逼迫していたということでしょうか。

紀元前73年にローマにおいて、奴隷による反乱が起きました。いわゆる第三次奴隷戦争、スパルタクスの反乱です。あしかけ3年も続いた大反乱も最後には、クラッススに率いられたローマ軍によって平定されます。この時の捕虜6000人をクラッススは十字架刑で処刑しています。ローマからポンペイまでのアッピア街道に6000本の十字架が立てられたのです。身もよだつ光景だったに違いありません。

十字架刑は、その十字に磔になるという不自然な形によって、自らの筋肉のために横隔膜が十分に広がらないゆえに、呼吸が妨げられ窒息しやがて死を迎えるという残酷な刑罰です。第二次世界大戦中ナチスドイツでは、なぜ十字架で死に至るかの実験をユダヤ人強制収容所の中で行ったとされています。真偽はいろいろとあるようなのですが、この刑が長く苦しまなくてはならないということだけは事実です。

不名誉な刑罰であったことから、民衆からみるとまさに主イエスの十字架は「愚かなもの」であったのに違いないのです。しかし、十字架は死では終わらず、神はそのひとり子イエス・キリストを復活させてくださった。この復活はまさに「神の力」以外の何者でもありません。

7.棕櫚の主日

その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。」(ヨハネ12:12~13)

「メサイア」を作曲した、ヘンデルに「マカベウスのユダ」というオラトリオがあります。これは、旧約聖書と新約聖書の間の時代(紀元前2世紀)に、シリアのセレウコス朝の圧制からユダヤを解放に導いたマカベウスのユダを題材としたものですが、イエス様の時代ユダヤは再びローマ帝国の圧制下におかれることとなり、解放者としてのメシアが待望されていました。

イエス様は、その事実を当然ご存知だったのでしょう。エルサレムに入城されます。マカベウスのユダの入城に使用された馬でなく、ろばで入城されます。馬は戦争を象徴していますが、ろばは農耕に用いられるものであり、平和の象徴です。戦争による解放のメシアではなく、平和の君としてのメシアであることをお示しになったのです。しかし、民衆はそのようなことには目を注がず、ただひたすら民族意識の高揚を態度で示していたのだと思われます。

エルサレム 黄金の門イエス様がこの時入城された門が黄金の門です。この門はオリーブ山から黄金のモスクとよく見ることができます。しかし、現在は封鎖されていて通ることはできなくなっています。エルサレムは67年のユダヤ戦争の際に、ローマ帝国により神殿・城壁等が破壊されました。その後支配権はローマ帝国がアラブ社会に移りやがて十字軍が起こります。オスマン帝国の有名なスレイマン大帝が1535年にエルサレムの修復をした際と思われるのですが、なぜか黄金の門は塗りこめられてしまったのです。

一説には、イスラム人から解放するメシアがこの門を通って入城するという言い伝えがありそれを恐れたからといわれています。この日からイエス様の受難の一週間が始まります。

8.宮清め

それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。」境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。(マタイ21:12~14)

イエス様のエルサレム入城に続いたのが、この宮清め事件でした。よく知られている記事でありますが、考えてみると不思議な出来事です。イエス様がこのように宮清めをしたとしても、商売と神殿の結びつきは非常に深かったのですから、すぐ元に戻ってしまったことでしょう。あれほどの怒りをもってしても、人の浅はかさ、罪深さゆえに前にもまして商売はさかんになったかもしれないのです。

このことを考える上で、考えておくべきことがあります。棕櫚の主日にもあげさせていただいた、「マカベウスのユダ」です。彼は、セレウコス朝アンティオコス4世がユダヤ教の弾圧そしてエルサレム神殿を汚したことに反乱をおこし、ついには勝利を収めるのですが、エルサレム入城の際に汚された神殿の宮清めを行っているのです。この歴史的事実をイエス様は意識しておられたのでしょうか。しかし、その意識はもっと外に向けられていたのです。

宮清めのさいにイエス様が引用された御言葉はイザヤ書56章7節です。この56章の前後をたんねんに読んでいくと、この御言葉は異邦人に救いがもたらされるという預言の中に書かれていることに気づきます。更に、宦官を代表として、神の恵みから洩れていると考えられている者たちに救いがやってくると言われているのです。マカベウスのユダは迫害者からユダヤを救ったが、イエス様は全ての人間を救われるメシアとして来られたことを啓示しているのです。

宮清めのあと、14節でいままで、神殿に入場することが許されていなかった身体の不自由な人が、神殿のイエス様のもとに集って、イエス様はその方達をいやされたと続いて記載されています。この記事はマタイしか記述していないのですが、まさにイエス様の勝利をあらわしたものと考えることができると思います。




9.聖木曜日(最後の晩餐)

食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」(ルカ22:20)

イエスがイスカリオテのユダの裏切りによって逮捕され、十字架上の死を遂げられる前の晩、(ユダヤの暦では1日の始まりは夕方から始まるので、正確には同じ日になります)は、ユダヤ民族の祭りの一つ過越の祭りの日でした。この祭りの起源はよく知られているように、モーセによるユダヤ民族のエジプトからの解放です。ファラオが解放をなかなか認めないので、モーセは神の力によって数々の奇跡を行い、エジプトに災いをもたらします。その最後のものが、すべてのエジプト人の初子が殺されたというものでしたが、この時に神から命じられたのが過越でありました。

出エジプト記では、「それを食べるときは、腰帯を締め、靴を履き、杖を手にし、急いで食べる。」と規定されており、これは明らかに出かける(エジプトを脱出する)支度をしてこの食事をするということです。一方種(酵母)を入れないパンを食べる(除酵祭)というのは、農耕民族起源と思われるので、エジプトを脱出したユダヤ民族がカナンに定着していく中で、両方が合わさったのと思われるのです。なぜ、酵母を除くのかというと、当時のパンはイースト菌ではなく自然酵母を使用していたので、使い続けているうちに雑菌が繁殖しやすいから種を一度捨てて、再度作り直すというところからきているのだと思います。今、自然酵母のパンが大変人気ですが、酵母を作るのに1週間ぐらいかかりますよね。

筆者も、1996年にエルサレムでこの過越の祭りに参加させていただく機会がありましたが、1週間前から、ホテルですら種をいれないパン、ちょうどクラッカーみたいなマッツォと呼ばれるパンだけになりますし、町のごみ捨て場には大量のベーグルが捨ててありました。本当に昔の習慣そのものなのだという気がします。

イエス様がこの最後の晩餐を催された場所には、共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)によると、十二人の弟子だけであったようです。ガリラヤ地方からエルサレムに一緒に登られた他のお弟子さんや、女性はどこに行ってしまったのでしょうか?聖書にはもちろん記述がないのですが、それぞれの宿か、または別の場所を借りて過越を守ったのだと思います。この最後の晩餐で主イエスが命じられたように、今に至るまで主の十字架と復活を記念して聖餐が守られているのはすばらしいことと思うのです。

10.聖金曜日(受苦日)

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3:16)

イエス様が、ユダヤ人に捕らえられ大祭司の審判のあと、ローマの代官ピラトのもとに連行されて裁判を受けました。ピラトがユダヤで任官されていたのは、紀元後26年から36年の間なので、イエス様の十字架はこの間の出来事ということになります。ユダヤの太陰暦ニサンの月14日または15日が金曜日であったのは、紀元後30年または31年に限られようですから、どちらかの年ということになりますから1980年ほど前の出来事ということになります。

イエス様が十字架にかかったのは、午前9時ごろであったとマルコは記述しています。不思議なことに、午前12時、すなわち昼になったとき、全地が暗くなってそれが3時まで続いたと記されています。天文学的には満月の時(ニサンの15日は太陰暦ですから十五夜です。)には日食は起きないので、そんなことはありえないとする人も多いのです。

ところが、小アジアの歴史記述家フレゴンという人がこのような記述を残しているのだそうです。「第202回オリンピックの第4年目(古代ギリシャのオリンピックは紀元前776年に第一回目があり、それから4年に1度行われていたので、紀元後32年になる)未曾有の日食が起きた。それは12時から3時まで続いた。昼は闇夜となり星が見えるほどであった。そして、地震がビタニヤで起きた。そのため、ニカエアでは多くの建物が倒壊した。」

おどろくべきことは、イエス様が息を引き取ったときに見張りをしていた、ユダヤ教徒でもない異邦人の百人隊長が「本当に、この人は神の子だった」と言うことです。これは信仰告白そのものではないかと思います。主イエスが神の子であると信じるものは、たとえそれがユダヤ人ではなく異邦人であったとしても、滅びないように主イエスは贖いをしてくださったのです。そして事態は三日後の輝かしい復活と続いていくのです。